昭和61年(1986年)3月、私たち家族(夫・私・長女6歳、次女2歳、三女5ヵ月)は、浦和市の別所沼公園近くの小さな家から東松山市上唐子の小さな家に転居しました。長女と一緒にフリースクール「夢の実」に参加するためです。夫は、子どもを学校で育てたくないって考えての決断です。迷いましたが、当時、若葉生協の理事長をしていた星さんからやってみてダメだったら変えればいいじゃない。って言われ、そういう考え方もあるのかって転居しました。
新聞報道で国立婦人教育会館があり、夏に女性フォーラムを行うことが掲載されていました。
歩いて10分くらいの距離です。

3人の幼児を連れてぬえっくへ=子ども連れ不可からのスタート
行ってみよう。長女と次女と三女をおんぶして出かけました。
どんなところなの?どんな本があるの?何をしているのという好奇心です。
かつて、大学時代、栗原彬研究室においてあった近現代の女性関連の書物を読みあさった贅沢な時代の記憶が蘇りました。
守衛に「子ども連れは入れません」とピシャリ断られました。
諦めきれず、もう一回、今度は三女をおぶって、長女・次女は夫に任せて出かけました。
残念。やはり、おんぶでも断られたのです。
国立市の公民館では子どもの保育が始まっていたこと、浦和市においても、映画会などでは保育が取り入れられるようになっていました。生協活動では、小さなわかば生協の理事でしたが、毎月の集まり、生産者の現地にに子どもを連れて行くことは当たり前でした。
なんだろうかって、手紙を書きました。国立婦人教育会館は、子ども連れでは入れないのはおかしいです_っていう内容でした。

夏のフォーラムに一人で行ってみて、大体の環境はわかりました。
講堂で大きなイベントをして、研修室で分科会的な催しが行われていること、
調理室・保育室があること、宿泊施設があること、全国から多くの女性が集まってきて学習することができることなどがわかりました。
が、子ども3人連れだと中に入ることができないこともわかりました。
その後、フリースクールはやめ、子どもたちはシュタイナーの方針で共同保育を行なっていた「小人の森」っていう活動をしていました。
その活動もやがてなくなり自然の中の共同保育を始めていました。
1989年、嵐山町に転居しました。夏のフォーラムの新聞報道はありました。
夫がいる時には、子どもを見てもらって、2、3時間の間学び、昼食をとり、夕方までまた参加しました。
川の水を持ち寄った1990年代ー生活クラブと実技棟での出会い
1991年9月、嵐山町議員に無投票当選。
生活クラブ生協で消費者運動をしていました。
子どもを連れて、国立女性教育会館に入ることは、以前よりも優しくなりました。
当時から、石鹸運動「合成洗剤を使わない」生活を進めることを生活クラブ生協では進めていました。
小川町、吉見町、東松山市、嵐山町の乳幼児を抱える30代から40代の女性が、月に一度、川の水を持ち寄って美術室で川の水を汚染度を調査しました。1990年代になると国立婦人教育会館は、実技棟なら、子どもを連れても利用していいが、お昼は食べてはいけないという条件でした。
駐車場が広いので、5、6人の小さい子どもを連れた女性たちが、集まり、持ち寄った川の水のアンモニアチッソ 亜硝酸チッソ リン酸リン 陰イオン界面活性剤 の4項目を毎月調べていました。
1997年からの報告書が残っているのですが、2000年くらいまでは、毎月集まって調べていて、汚染が少しづつきれいになっていったというものでした。
私も子どもを連れてとき川の水をくむ時、ぬるっとした感覚があったのが、なくなっていることに気づいていました。幼稚園入園前の3歳児くらいが、毎回2、3人一緒にいました。途中で、おっぱいをあげる人、小さい子のおしっこに外のトイレに一緒に行くなど、賑やかでした。

生協活動では、1年に2回くらいは調理室で、調理をして、試食室で食べる。その間、保育室で保育を行う、地域活動として国立婦人教育会館は開放されており、私は日時が合う時は参加していました。
議員になってからの夏のフォーラムは知識の宝庫でした。さまざまなワークショップに参加しました。KJ法は、このフォーラムのワークショップで覚えました。学生時代、教育大舞踊学科の友達の卒論を書くときにKJ法を使っていて分類を手伝ったことがありました。が、グループ活動で論理をまとめるのに、使えるのだなあって、嵐山町の議会委員会活動でも活用できればいいなあって思って参加していました。
ここで、全国の市町村議員に会い、情報交換をしてネットワークを少しずつ作っていきました。
フェミニスト議員連盟のワークショップ、山下泰子さんの講演、赤松良子さんのワークショップ、女性労働者の裁判などの情報を覚えました。

町に子どもの文化活動を
嵐山町には子どもの文化活動がないっていう感想を私は持っていました。近いところでも電車に乗って東松山市まで行って市民会館まで行かないと子どもは映画が見れないのはとても残念でした。
私が議員になる前、嵐山町の女性グループが、町立幼稚園3年保育の請願運動をしていました。当時はまだ、1年保育でした。子どもたちを幼稚園の1年間だけでなく一緒に保育するためにピーターパンというグループを作っていました。彼女たちの運動は、彼女たちの子どもには間に合わなかったけれど、子どもの教育保育環境を作ろうという人たちの運動ができていたのです。同年齢ですし、すぐに友人になり一緒に「ジャングルジムの会」を作りました。そこで、ヌエック講堂で、子どものための映画会をすることにしました。
演劇や、コンサートは、予算的にも無理でした。
私は準備のため、16ミリ映画の上映技師の資格を取りました。
そして、1996年、今、名前は思い出せないのですが、イルカと少年の話の映画会を開催することにしました。1人300円、会場費とフィルム代、印刷費以外は、阪神淡路大震災に寄付することにしました。
新聞報道で見た自主映画会のお誘いから、島にいる少年とイルカの映画でした。
学校にチラシ配布をお願いし、300円を集めました。講堂の横のスペースに阪神・淡路大震災の写真を並べました。
私は、16ミリ映画の上映は自信がなかったのですが、映画を作成する友人もいたし、神戸から技師が来てくれました。
よかったって思いました。
私たちは、次に繋ごうとしました。その次どなたかの団体がガイヤシンフォニーの映画を上映しました。
公的なものでなく市民団体が文化活動をしていく一歩にもなりました。
なぜ、ヌエックと私の40年間を書いていくか
ヌエックは埼玉県、比企地域では市民の学習を進める全国から人が集まる豊かな学びの公共空間でした。それを男女共同参画に関わりのない事業が多く、しかも金を稼いでおらず、老朽化対策に予算がかかる、肝心の男女共同参画事業は、人が集まらない、コロナ禍でオンラインでやって成功した、男女共同参画はオンラインで発信していくということで、独立行政法人「男女共同参画機構」と組織を改変し、地域資源と言える研修棟、体育館、お茶室、宿泊棟、実技棟は、本年4月から利用できなくなっています。民間のサウンディングで、この地域で民間が行う場合、この建物を取り壊さず、使っていただく、そうでない場合、撤去して更地にして埼玉県に土地を返却するという国の方針です。これには、運営者の声が中心ですが、利用者・当事者の声は反映されていません。
館長さんや理事者の方は都心から電車で武蔵嵐山駅まで来られて、企画・運営をなさるのは大変だったでしょう。ですが、これだけの自然環境の豊かで静寂で賑やかな環境から離れた場所で学び探求することの価値をもっと大切にしてほしい。今では、この地で人々が集って学習することはできないのです。アーカイブを作っても誰も訪れず、宝のもちぐさりだという発想は当然です。今は、夏休み。1昨年まで、多くの人が夏に宿泊研修をして、人があふれていました。ですが、人が集まることができないように組織改変をしました。
さらに大きな危機感を抱いているのは、聖心女子大学のGoogleフォームを活用して行われている「都心サテライト設置」を求める署名活動の存在です。
現ジーパ館長である大槻奈巳氏が聖心女子大学の教授を務められていた経緯を考えれば、こうした動きが出てくる背景もうなずけます。しかし驚くことに、その署名の呼びかけ人には、かつてNWECの館長や理事者を務められた方々までもが名を連ねておられます。
嵐山の地で全国の女性支援や学びの歴史を共に築いてきたはずの歴代幹部の方々が、なぜ呼びかけ人となって都心サテライトを求める動きを推進しておられるのでしょうか。これまで現場が積み上げてきた40年の重みが置き去りにされていくような、強い焦燥感と疑念を禁じ得ません。私は深い危機感を覚えました。「都心の交通の弁の良く、環境に恵まれている地に市民と女性を集めれば男女共同参画が進む」という発想は、地方で生きる女性たちの足元や、これまで地域で積み重ねられてきた歴史、地方自治体が男女共同参画の条例を作ってきたことを軽視することになりませんか。署名の宛先に意見を送りました・送った後、聖心女子大のGoogleフォームを使っていますと掲載されていました。
嵐山町と協働して地域の男女共同参画の拠点にすることが令和6年7月30日に公表されました。都心にサテライトを作る要望をなさることは否定はしません。
ですが、内閣府・文科省・国立女性教育会館が地域の象徴である嵐山町との協働で男女共同参画を進めていくと公表したこと、人が集えなければ地域で男女共同参画は進まないことを改めて考えていただきたい。

なぜ、ジーパに人が集まらないのでしょうか。
なぜ、せっかく作ったアーカイブを見る人がいないのでしょうか。遠距離で、2時間もかかるので人が来ないという理由です。本当にそうでしょうか。一般開放されず、オンラインでの知識の伝達で宿泊もできなければ、人は来ないのです。
今また、こども3人連れで入れなかった時代に戻っています。
土日を閉鎖し、午前9時から午後5時までの開館時間です。一般には施設は開放されていません。
情報センターのみです
どのような理由で人がジーパに来ることができるでしょうか。。
地元の人も利用できません。
施設は、開放している形をとっていますが、実際は、深く閉ざしています。
広く、人が利用するようにしたい。多くの官公庁は、猛暑のために、施設を開放しています。
緑が深く、真夏のクールオアシスです。もっと、人が集まるはずです。
そういう思いで、懐古ではなく、泥臭い一歩を進めるためにこの文章を書き上げていこうと決意しました
新聞報道で国立婦人教育会館があり、夏に女性フォーラムを行うことが掲載されていました。
歩いて10分くらいの距離です。

3人の幼児を連れてぬえっくへ=子ども連れ不可からのスタート
行ってみよう。長女と次女と三女をおんぶして出かけました。
どんなところなの?どんな本があるの?何をしているのという好奇心です。
かつて、大学時代、栗原彬研究室においてあった近現代の女性関連の書物を読みあさった贅沢な時代の記憶が蘇りました。
守衛に「子ども連れは入れません」とピシャリ断られました。
諦めきれず、もう一回、今度は三女をおぶって、長女・次女は夫に任せて出かけました。
残念。やはり、おんぶでも断られたのです。
国立市の公民館では子どもの保育が始まっていたこと、浦和市においても、映画会などでは保育が取り入れられるようになっていました。生協活動では、小さなわかば生協の理事でしたが、毎月の集まり、生産者の現地にに子どもを連れて行くことは当たり前でした。
なんだろうかって、手紙を書きました。国立婦人教育会館は、子ども連れでは入れないのはおかしいです_っていう内容でした。

夏のフォーラムに一人で行ってみて、大体の環境はわかりました。
講堂で大きなイベントをして、研修室で分科会的な催しが行われていること、
調理室・保育室があること、宿泊施設があること、全国から多くの女性が集まってきて学習することができることなどがわかりました。
が、子ども3人連れだと中に入ることができないこともわかりました。
その後、フリースクールはやめ、子どもたちはシュタイナーの方針で共同保育を行なっていた「小人の森」っていう活動をしていました。
その活動もやがてなくなり自然の中の共同保育を始めていました。
1989年、嵐山町に転居しました。夏のフォーラムの新聞報道はありました。
夫がいる時には、子どもを見てもらって、2、3時間の間学び、昼食をとり、夕方までまた参加しました。
川の水を持ち寄った1990年代ー生活クラブと実技棟での出会い
1991年9月、嵐山町議員に無投票当選。
生活クラブ生協で消費者運動をしていました。
子どもを連れて、国立女性教育会館に入ることは、以前よりも優しくなりました。
当時から、石鹸運動「合成洗剤を使わない」生活を進めることを生活クラブ生協では進めていました。
小川町、吉見町、東松山市、嵐山町の乳幼児を抱える30代から40代の女性が、月に一度、川の水を持ち寄って美術室で川の水を汚染度を調査しました。1990年代になると国立婦人教育会館は、実技棟なら、子どもを連れても利用していいが、お昼は食べてはいけないという条件でした。
駐車場が広いので、5、6人の小さい子どもを連れた女性たちが、集まり、持ち寄った川の水のアンモニアチッソ 亜硝酸チッソ リン酸リン 陰イオン界面活性剤 の4項目を毎月調べていました。
1997年からの報告書が残っているのですが、2000年くらいまでは、毎月集まって調べていて、汚染が少しづつきれいになっていったというものでした。
私も子どもを連れてとき川の水をくむ時、ぬるっとした感覚があったのが、なくなっていることに気づいていました。幼稚園入園前の3歳児くらいが、毎回2、3人一緒にいました。途中で、おっぱいをあげる人、小さい子のおしっこに外のトイレに一緒に行くなど、賑やかでした。

生協活動では、1年に2回くらいは調理室で、調理をして、試食室で食べる。その間、保育室で保育を行う、地域活動として国立婦人教育会館は開放されており、私は日時が合う時は参加していました。
議員になってからの夏のフォーラムは知識の宝庫でした。さまざまなワークショップに参加しました。KJ法は、このフォーラムのワークショップで覚えました。学生時代、教育大舞踊学科の友達の卒論を書くときにKJ法を使っていて分類を手伝ったことがありました。が、グループ活動で論理をまとめるのに、使えるのだなあって、嵐山町の議会委員会活動でも活用できればいいなあって思って参加していました。
ここで、全国の市町村議員に会い、情報交換をしてネットワークを少しずつ作っていきました。
フェミニスト議員連盟のワークショップ、山下泰子さんの講演、赤松良子さんのワークショップ、女性労働者の裁判などの情報を覚えました。

町に子どもの文化活動を
嵐山町には子どもの文化活動がないっていう感想を私は持っていました。近いところでも電車に乗って東松山市まで行って市民会館まで行かないと子どもは映画が見れないのはとても残念でした。
私が議員になる前、嵐山町の女性グループが、町立幼稚園3年保育の請願運動をしていました。当時はまだ、1年保育でした。子どもたちを幼稚園の1年間だけでなく一緒に保育するためにピーターパンというグループを作っていました。彼女たちの運動は、彼女たちの子どもには間に合わなかったけれど、子どもの教育保育環境を作ろうという人たちの運動ができていたのです。同年齢ですし、すぐに友人になり一緒に「ジャングルジムの会」を作りました。そこで、ヌエック講堂で、子どものための映画会をすることにしました。
演劇や、コンサートは、予算的にも無理でした。
私は準備のため、16ミリ映画の上映技師の資格を取りました。
そして、1996年、今、名前は思い出せないのですが、イルカと少年の話の映画会を開催することにしました。1人300円、会場費とフィルム代、印刷費以外は、阪神淡路大震災に寄付することにしました。
新聞報道で見た自主映画会のお誘いから、島にいる少年とイルカの映画でした。
学校にチラシ配布をお願いし、300円を集めました。講堂の横のスペースに阪神・淡路大震災の写真を並べました。
私は、16ミリ映画の上映は自信がなかったのですが、映画を作成する友人もいたし、神戸から技師が来てくれました。
よかったって思いました。
私たちは、次に繋ごうとしました。その次どなたかの団体がガイヤシンフォニーの映画を上映しました。
公的なものでなく市民団体が文化活動をしていく一歩にもなりました。
なぜ、ヌエックと私の40年間を書いていくか
ヌエックは埼玉県、比企地域では市民の学習を進める全国から人が集まる豊かな学びの公共空間でした。それを男女共同参画に関わりのない事業が多く、しかも金を稼いでおらず、老朽化対策に予算がかかる、肝心の男女共同参画事業は、人が集まらない、コロナ禍でオンラインでやって成功した、男女共同参画はオンラインで発信していくということで、独立行政法人「男女共同参画機構」と組織を改変し、地域資源と言える研修棟、体育館、お茶室、宿泊棟、実技棟は、本年4月から利用できなくなっています。民間のサウンディングで、この地域で民間が行う場合、この建物を取り壊さず、使っていただく、そうでない場合、撤去して更地にして埼玉県に土地を返却するという国の方針です。これには、運営者の声が中心ですが、利用者・当事者の声は反映されていません。
館長さんや理事者の方は都心から電車で武蔵嵐山駅まで来られて、企画・運営をなさるのは大変だったでしょう。ですが、これだけの自然環境の豊かで静寂で賑やかな環境から離れた場所で学び探求することの価値をもっと大切にしてほしい。今では、この地で人々が集って学習することはできないのです。アーカイブを作っても誰も訪れず、宝のもちぐさりだという発想は当然です。今は、夏休み。1昨年まで、多くの人が夏に宿泊研修をして、人があふれていました。ですが、人が集まることができないように組織改変をしました。
さらに大きな危機感を抱いているのは、聖心女子大学のGoogleフォームを活用して行われている「都心サテライト設置」を求める署名活動の存在です。
現ジーパ館長である大槻奈巳氏が聖心女子大学の教授を務められていた経緯を考えれば、こうした動きが出てくる背景もうなずけます。しかし驚くことに、その署名の呼びかけ人には、かつてNWECの館長や理事者を務められた方々までもが名を連ねておられます。
嵐山の地で全国の女性支援や学びの歴史を共に築いてきたはずの歴代幹部の方々が、なぜ呼びかけ人となって都心サテライトを求める動きを推進しておられるのでしょうか。これまで現場が積み上げてきた40年の重みが置き去りにされていくような、強い焦燥感と疑念を禁じ得ません。私は深い危機感を覚えました。「都心の交通の弁の良く、環境に恵まれている地に市民と女性を集めれば男女共同参画が進む」という発想は、地方で生きる女性たちの足元や、これまで地域で積み重ねられてきた歴史、地方自治体が男女共同参画の条例を作ってきたことを軽視することになりませんか。署名の宛先に意見を送りました・送った後、聖心女子大のGoogleフォームを使っていますと掲載されていました。
嵐山町と協働して地域の男女共同参画の拠点にすることが令和6年7月30日に公表されました。都心にサテライトを作る要望をなさることは否定はしません。
ですが、内閣府・文科省・国立女性教育会館が地域の象徴である嵐山町との協働で男女共同参画を進めていくと公表したこと、人が集えなければ地域で男女共同参画は進まないことを改めて考えていただきたい。

なぜ、ジーパに人が集まらないのでしょうか。
なぜ、せっかく作ったアーカイブを見る人がいないのでしょうか。遠距離で、2時間もかかるので人が来ないという理由です。本当にそうでしょうか。一般開放されず、オンラインでの知識の伝達で宿泊もできなければ、人は来ないのです。
今また、こども3人連れで入れなかった時代に戻っています。
土日を閉鎖し、午前9時から午後5時までの開館時間です。一般には施設は開放されていません。
情報センターのみです
どのような理由で人がジーパに来ることができるでしょうか。。
地元の人も利用できません。
施設は、開放している形をとっていますが、実際は、深く閉ざしています。
広く、人が利用するようにしたい。多くの官公庁は、猛暑のために、施設を開放しています。
緑が深く、真夏のクールオアシスです。もっと、人が集まるはずです。
そういう思いで、懐古ではなく、泥臭い一歩を進めるためにこの文章を書き上げていこうと決意しました

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